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2012年9月18日 『ダイヤモンド オンライン』記事要約

    第4回 ボーダレスに生きる日本人企業家の<人生が動き出す世界の眺めかた>
                                    イーパーセル株式会社・代表取締役社長 北野譲治(きたの・じょうじ)

        グーグルに勝利した男 - 第2回 (全3回)
                      働くなら、「儲ける」より「稼ぐ」を考える

 

 六本木の路上で花を売っていた頃

「稼ぐこと」

―それがすべてだった。

一気に時計の針を30年ほど巻き戻して、学生時代にさかのぼってみたい。

大学4年間は、貧乏学生らしく勉強そっちのけでアルバイトに没頭した。とにかく早朝から深夜まで、遊ぶ時間も(当然、勉強する時間も)なく、仕事に明け暮れた。休日は4人の小・中学生の家庭教師、平日は早朝の築地魚河岸のマグロの台車押しにはじまり、授業のない日は仮眠をとって夕方から深夜2時まで、六本木・俳優座向かいにあったスーパー軒先の小さな露店で花を売っていた。

田舎者の貧乏学生が大都会の真ん中で生きていくためと言ってしまえばそれまでだが、花屋では、お金を稼ぐ「尊さ」や「工夫」、「楽しさ」と「辛さ」を店主から徹底的に叩き込まれた。若かったからだろう、そんなことをスポンジのように体が吸収した。一言でいえば、商売の本当の楽しさを教わった気がする。

これまでの人生を振り返ると、僕に起業家精神を植え付けたのは、他でもないこの六本木の花屋の主人だったんだろう。「男なら、小さくてもいいから一国一城の主(あるじ)になれ」とよく話していたことを思い出す。

今や六本木の一等地で店舗を構えるまでになった店主とは、今も親しくお付き合いしている。ちょっと歳の離れた兄貴のような存在で、どんな場面に遭遇しても、無条件に僕を支えてくれる最も頼れる応援団だ。

その花屋にはテント屋根があるだけだったので、天候は店主にとって大きな関心事だったはずだ。確かに、天気は売上に大きく影響した。しかし、店をオープンするかどうかを決めるのには、さして重要ではなかった。というのも、日曜と祝・祭日の定休日以外は、どんな事態に直面しようが例外なく、夕方の4時には必ず生花の陳列を終え、深夜2時まで開店することに決めていたから。そして、いつしか、それが商品の質や価格を圧倒的に凌駕するコア・コンピタンス(他がまねできない能力)になっていた。

嵐の日には花束が飛ばされて、街中を追っかけ回したことも一度や二度ではなかった。豪雨になれば全身ずぶ濡れになったが、それでも店は閉めなかった。真夏は汗だくになり、真冬になれば寒さに打ち震えて花束をつくることすらできないこともあった。しかし、そんな辛い記憶も今、思い起こせば、ただただ懐かしい。紛れもなく、僕の青春時代は、大学のキャンパスではなく、六本木の小さな花屋と共にあった。

 

 「稼ぐこと」の本質

結局、4年間の花屋での経験は何だったのか?

六本木の路上で花を売るのも、企業を回って保険を売るのも、本質はまったく同じ。「モノを売ることにかけては生まれつき才能があったんだと思う」と語る北野さん。 それは、「しなやかに、そして、したたかに生きる」術を身に付けることだったと、今は総括している。その術を一言でいえば、人からの信頼を獲得すること。懸命に生きる自分の姿を飾らず相手にぶつければ、信頼は自然とついてくる。そのことを僕は六本木の花屋で学んだ。

飾らない真実は、人の胸を打つ。そこに感動があり、信頼が生まれる。

深夜、大雨の中、たった一人の客が花束を買いに来るかもしれない。その可能性は否定できない。だから、その一人のために全力でやり抜く。朴訥(ぼくとつ)だが、こんな姿勢が大勢の中の一人に感動を与える。

六本木は小さな街だから、その一人の小さな感動が、いずれは街全体に広がっていく。素晴らしい経験だった。だから、厳しくしつけてくれた花屋の主人、いつも励ましてくれた六本木の街の人々、必ず立ち寄ってくれた馴染みのお客様、皆さんのご厚意に心から感謝している。常にそんな思いで頑張っているから、一度勝ち取った信頼は決して裏切ることのないよう、今も懸命の努力を続けている。

だから、社会に出ると自然と稼げるようになった。仕事ができると評判のセールスマンは、保険だろうが、車だろうが、時には家だろうが、何だって、その専門知識のあるなしに関わらず苦労もなく売ってくる。その極意は、信頼を売ることにある。

要するに「稼ぐ」とは、お金を「稼ぐ」のではなくて人からの信頼を「稼ぐ」ことなのだ。

 

 28歳の時の起業は大成功だったが…

「儲ける仕事」から「稼ぐ仕事」へ。

大学卒業後、僕は損害保険会社に入社し、当時一番の売上を誇っていた新宿支店所属のセールスマンになった。その時点ではいずれ必ず起業しようと心に決めていたから、「3年間限定の契約社員(最終的には5年間に延長された)」「給料は出来高払い」という条件に、内心ニンマリしながら力強くサインした。

夜の六本木の路上で花を売るのも、新宿界隈の企業を訪ねて保険を売るのも、本質的には何ら変わるところはなかった。だから、入社後は、同期も先輩も関係なく、相手が誰でもセールスで負ける気はしなかった。すぐにトップセールスマンになり、初年度の年収はどうやら当時の社長の年収をはるかに超えていたらしい。「信頼の稼ぎかた」を身に付けた後だけに、当然の結果だと思っている。

保険会社との契約期間が満了した年、僕は28歳になっていた。その年、保険の商品知識とセールスのノウハウを活かして保険ブローカーの会社を設立し、社長に就任した。

やっと、念願叶っての社長業だ。より一層がむしゃらに働く毎日がはじまり、会社のソファで朝を迎えるなんてことも決して珍しくなかった。努力と収入が常識の範囲でバランスを保っていたアルバイト時代と比較すると、社会人になってからは、あまりにもアンバランスな収入を手にしていた。「努力=投資」「収入=効果」であるから、投資対効果が優れていたと結論すればよかったのだろうが、なぜか、すっきりしなかった。

 

 バブル時代に抱いた違和感

当時の僕がやっていた企業に対して保険を売るというビジネスの醍醐味は、お客様のいろいろな経営リスクを的確にとらえて、それをカバーする戦略的保険商品を提案するところにあった。だから、セールスマンには豊富な経験と深い知識に加え、お客様と保険会社の双方との交渉力も要求された。

常にお客様と向き合い、最高の商品を提供した結果として収入を得る。このステップをしっかりと踏むからこそ、収入が努力に比例して増え続けることに大きな幸せを感じた。とてもやりがいのある仕事だった。

ところが、バブル景気がすべてを変えた。お客様は投機的な情報をほしがるようになり、保険会社はもとより僕らセールスマンも販売する主力商品の品揃えを大きく変えた。そう、金融商品的な保険商品の販売に集中しはじめたのだ。

結果、わずかな努力で大きな富を得られるようになったものの、同時に得体の知れない違和感を覚えはじめた。夜の六本木の路上で一つ数百円から数千円の花束を売っていた時に感じたすがすがしい充実感のようなものが、まるでなかったのだ。

すでに、僕は30代後半にさしかかろうとしていた。「でっかく儲ける仕事」から「しっかり稼ぐ仕事」に舵(かじ)を切り直したい。そんなことを考えるようになっていた。

おりしも、アメリカ発の新たな文明の利器、インターネットが、世の中のあらゆる仕組みを根底から変えようとしていた。

 

 〈イーパーセル〉との出会い

2000年9月のある休日の朝、日本輸出入銀行、通称・輸銀(現JBIC)のニューヨーク事務所駐在の友人から一通のメールが飛び込んできた。

何気なく読んでみると、1996年にボストンで創業したITベンチャー〈イーパーセル〉が、日本法人を立ち上げる内容のメールだった。友人が僕の話をしたところ、何を思ったのか、創業者が僕にコンタクトを求めてきたのだ。

とはいえ、IT業界のことなどまったく門外漢の僕にしてみれば、当初は転身するつもりなどまったくなかったので、創業者(兼CEO)の相談相手程度になれればいいだろう、くらいに考えていた。

しかし、最初から創業者の男はマジだった。初対面の会食の場でもスカウトする気まんまんという空気が伝わってきたし、二回目の会食の後も、地下鉄の駅構内で終電近くまで、僕に向かって延々何時間も〈イーパーセル〉のビジョンを語って聞かせた。

「技術で世界を変えようじゃないか!」

彼の言いたいことは明確だった。〈イーパーセル〉が最高の頭脳を結集させて生み出したIT技術で世界の電子物流市場を制覇しよう。説得するなら、塵っぽい地下鉄の駅ではなくてせめて温かいコーヒーを飲みながらにして欲しかったが、彼の言葉に僕の心は動きはじめていたようだ。

「僕が加われば世界制覇も夢じゃない」という直感、「ちょっと僕のガラじゃない」というためらい、「門外漢のITの世界じゃ、さすがの僕も戦えない」という思考停止……。話を聞いた直後はこうした思いが頭の中を駆けめぐっていた。それが、その時の率直な感想だった。

でも、ベッドで意識がなくなる直前、「もしかすると、これかもしれない……」と、自らの真奥(まおく)の声が聞こえた気がした。相談相手程度ではなく、本気で取り組んでみるべきではないか…。

そして、38歳になる直前の秋、経営企画担当執行役(と言っても、創業者の世話役兼営業部長みたいな立場だった)として、入社を決意した。こうして僕の「世界を変える」新たな挑戦の日々が、ベンチャーの経営というカタチでスタートを切った。

 

 コンシューマー・ビジネスのモロさ

昨今、若くて優秀でチャレンジ精神旺盛な人材が「起業」を人生の一つの選択肢として考えるような風潮になってきた。

一昔前と比べると、創業時における銀行融資、富裕層のエンジェル資金の活用、あるいはベンチャー・キャピタルの投資など、豊富な選択肢が用意されるようになってきたし、マーケットでは優秀な人材の流動化が進んでいる。

こうして起業を後押しする環境(インフラ)が整ってきた点も重要だが、後進が「起業してみよう」と本気になる最大の理由は、成功体験を持つベンチャーの経営者が多く現れてきたことにある。

IT業界に限っていえば、成功者の多くはコンシューマー(消費者)向けのビジネスを手がけた経営者だ。携帯電話やスマートフォン、あるいは携帯端末タブレット向けの便利なアプリケーションやオンラインゲームを一般のコンシューマーに提供する会社がずいぶんと増えてきて、それらの成長が著しい。

コンシューマー向けの製品は、それを欲しい(または必要)と思った個人が、誰の許可も必要とせず、条件さえ整えば購入を即決する。要するに、自己責任において物事が完結するのだ。だから、いいモノは一気に広がって爆発的にヒットする商品が生まれるが、逆に一瞬にして消え去ることもある。コンシューマー・ビジネスの「よさ」と「モロさ」はそんなところにある。

対して、日本のB2B(Business to Business:企業間取引)市場でITベンチャーが成果を上げるのは非常に難しい。そして、「世界を変える」可能性を持つのは、コンシューマー・ビジネスよりもむしろB2Bビジネスだと確信している。

前回(9月4日掲載)にも書いた通り、〈イーパーセル〉はB2Bを行うITベンチャーで、難しい挑戦だからこそ、僕はそこに大きなやりがいを感じている。

 

 僕がB2B市場で勝負する理由(ワケ)

例えば、グローバルに展開する製造業では、製品開発に関わる大容量の秘匿データを地球の裏側の開発拠点(または生産拠点)に配送する業務が日常的に発生している。

その場合、まず電子媒体にデータを焼きつけるが、後には社内の出荷手続きが待っている。それを国際郵便に乗せ、到着確認と内容物(データ)のチェックを行う。万が一、媒体自体や内容物の破損が発見されれば、また同じ作業をイチから繰り返さなくてはいけない。ある企業では、こんなことに約14日のリードタイム(所要時間)を計算に入れているという。

これを、〈イーパーセル〉の技術を使えば、世界中どこであっても距離に関係なく、わずか数十秒から数分程度で、「安全」「確実」にデータを届けられる。

冷静に考えて欲しい。この違いが、ビジネスにおいて何を意味するのか?

〈イーパーセル〉は小さなITベンチャーにすぎないが、「技術」を通して、企業の業務フローを劇的に改善し、そこで働くホワイトカラーの行動様式を変えた。企業の中の行動様式が変われば、産業構造全体もよりムダのないものになっていくだろうし、やがては社会システムそのものを変革できるかもしれない。

これこそが、「世界を変える」ことに直結するのだ。僕の願いが叶うなら、いずれ事業に成功して、ベンチャーとして日本のB2B市場でどんな参入障壁を乗り越えてきたか、その体験や知恵をひも解いて示したい。

それができれば、同業のベンチャー経営者にとって大きな励みになるだろうし、これから起業を真剣に考えている若い人の背中を、「畏(おそ)るる無かれ」と押してあげることにもなる。僕は若いベンチャー経営者の活躍なくして、日本の産業の将来はないと信じている。

 

 黄金の釘を打ち込むつもりでやる

今年6月、3人の大先輩方と鎌倉で昼食をご一緒した。中心人物は、日頃から「人物と歴史に学べ」とご指導くださる人間学の大家で御年93歳、もうお一人は某元県知事、それから僕の人生の師のご長男だった。ふと自分の時間に戻る貴重なひと時だ。一流を目指すなら、超一流の先輩にゴシゴシ磨き上げてもらうのが一番だと思っている。

昼食をとった後、みんなで同道して北鎌倉の円覚寺(えんがくじ)を訪ねた。山門をくぐり左右の大きな杉を睨みながら、左の急坂を登った。息も絶え絶えになったが、今を盛りと咲き誇る美しい紫陽花(あじさい)が、僕らを目標の塔頭まで導いてくれた。円覚寺派前管長の足立大進(あだちだいしん)老師が温かく出迎えて下さった。

最近の政治や経済、さらには日本の文化や生活、勿論宗教に至るまでしばらくご高説を賜った後、老師が奥の部屋から「書」をお持ちになられた。与謝野晶子が詠んだ「劫初(ごうしょ)より作り営む殿堂に われも黄金(くがね)の釘(くぎ)一つ打つ」という「書」で、それを僕に下さったのだ。後に聞けば、訪問者4人の中で僕が一番若いので、「おいっ、若いの、しっかりせい!」という思いで書いて用意して下さっていたらしい。

「劫初」とは「この世の初め」のこと。全体としては「気の遠くなるようなとてつもなく長い年月の中に、自分が存在した証として決して錆びることのない釘を打ち込みたい」という意味になる。庫裏(くり)の畳の上に正座して、この和歌の解説を拝聴した時の感銘が、今も僕の心にあざやかに刻まれている。

後日、額装して、自宅玄関正面の壁に掛けた。毎日必ず目に飛び込んでくるから、「昨日の失敗に捕われず、明日の夢に溺れず、今日も一日一生懸命仕事をするぞ」と心に刻んで毎朝オフィスに向かっている。

最後に一言申し上げて、終わりにしたい。

今、自分の年齢がいくつになったか。それは、新たなチャレンジをする者にとって本質的な問題ではない。本当にやりたいコトが見つかれば、「逞(たくま)しい意思」と「炎える情熱」でそれに挑んでみたらいい。勿論、一大決心するのだから、「われも黄金の釘一つ打つ」、それくらいの気概を持って仕事と格闘して欲しいと願う。

続く... 2012.10.2号 第3回

 

 

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